9月27日、佐賀地方裁判所にて、原告として以下の内容で意見陳述をしました。

後半の裁判所の姿勢を問いただす下りは、東電刑事裁判の判決を受けて急遽入れたものです。

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(1)原告の阪上といいます。この間、福島第一原発事故の被害者の支援活動と並んで、市民の立場で原子力規制行政を監視する活動を行ってきました。事故後、最初の川内原発の審査で問題となったのが火山でした。専門家と協力しながら、原子力規制庁との意見交換、原子力規制委員会への提言などを行ってきました。こうした経緯から、玄海原発の火山影響評価に関して陳述させていただきます。

(2)「火山ガイド」は立地評価において、事業者に対し「設計対応不可能な火山事象が、原子力発電所の運用期間中に影響を及ぼす可能性が十分に小さいこと」の立証を要求しています。九州電力の場合、阿蘇を含む九州の5つのカルデラ火山において、火砕流が届くような破局的噴火が、原発の運用期間中に発生する可能性が十分に小さいか否かが問題となりました。

(3)川内原発差止仮処分について2015年4月に鹿児島地裁が下した決定は、可能性が十分に小さいことは立証されている、との九電の主張を全面的に認めるものでした。これに対し、専門家から次々と批判の声が上がりました。原告は即時抗告し、2016年4月に福岡高裁宮崎支部が決定を下します。決定は事実認定を丁寧に行ったうえで、専門家に従い「噴火の予測は困難」としたうえで、「相手方がした、5つのカルデラ火山の活動可能性が十分に小さいとした評価には、その過程に不合理な点があるといわざるを得ない」と、九電による立証を否定しました。これで差止のはずでした。

(4)裁判所がここで持ち出したのが社会通念でした。決定には「影響が著しく重大かつ深刻なものではあるが極めて低頻度で少なくとも歴史時代において経験したことがないような規模及び態様の自然災害の危険性(リスク)については、その発生の可能性が相応の根拠をもって示されない限り、建築規制を始めとして安全性確保の上で考慮されていないのが実情であり、このことは、この種の危険性(リスク)については無視し得るものとして容認するという社会通念の反映とみることができる」とあります。破局的噴火は被害があまりに甚大であり、リスクを無視しても容認されるのが社会通念であるから、グレーは黒ではなく、黒であることが示されない限りよいというのです。そして火山ガイドの方が不合理だとし、差止の請求を棄却しました。その後、松山地裁、広島地裁などで、この決定が踏襲されます。

(5)また決定は、原告の要求を「絶対的な安全性」だと決めつけ、社会通念はそこまでは求めていないと否定し、要求する安全を一般防災のレベルに落としています。非常にずるいやり方だと思います。日本中が住めなくなるのだから放射能をまき散らしても構わないということにはならないし、何より、原発事故の重大さからして、その安全性を一般建築物より厳しくみるのは当然のことではないでしょうか。決定は、原発の安全を「別異に考える根拠はない」と言いますが、それも違うと思います。

(6)その後、2017年12月の広島高裁の抗告審決定は、伊方原発の差止を認めました。四国電力による阿蘇カルデラの破局的噴火の可能性が十分に小さいとの立証を否定したうえで、火山ガイドも社会通念が考慮されているとし、火山ガイドに従って立地不適としたのです。至極もっともな決定だと思います。

(7)そして規制委はその3か月後に「基本的な考え方」を示します。「巨大噴火は、広域的な地域に重大かつ深刻な災害を引き起こすものである一方、その発生の可能性は低頻度な事象である」「運用期間中に巨大噴火が発生する可能性は全くないとはいえない」としたうえで、「巨大噴火によるリスクは、社会通念上容認される」とし、「運用期間中に巨大噴火が発生する…根拠があるとはいえない場合は、…『可能性が十分に小さい』と判断できる」というものです。

(8)福岡高裁宮崎支部決定にすり寄るものですが、火山ガイドを不合理とはせず、解釈だけで骨抜きにしています。それは、宮崎支部決定が火山ガイドに代えて審査の拠り所とした親条文の基準規則6条ではあまりに無内容であり、稼働中の原発の許認可の前提が崩れるのを恐れたからだと思われます。

(9)そのため「可能性が十分小さいとはいえない」を「可能性が全くないとはいえない」に巧妙に言い換えるなどして体裁を取り繕ったうえで、最後はやはり、グレーは黒ではなく、黒であることが示されない限りはよいとしています。しかし原発の審査は、事業者と規制当局の二者の関係です。黒であることの立証を積極的に行う者は誰もいません。それに、「中・長期的な噴火予測の手法は確立していない」との専門家の共通認識に照らしても、巨大噴火について黒の立証などそもそも不可能なことは明らかです。事業者も規制当局も、実質的には何もしなくても、この問題で審査に落ちることはなくなります。グレーは黒の原則を捨てることは、規制の放棄を意味します。

(10)さらに、リスクを無視する対象を、こっそりと「破局的噴火」より噴火規模が一桁小さい「巨大噴火」にまで広げている点も問題です。破局的噴火の頻度は数万年に1回程度とされていますが、巨大噴火では数千年に1回程度となります。核燃料が存在する運用期間が長期にわたることを考慮すると決して低い頻度ではありません。九電が川内原発の火山影響評価において、運用期間中に発生しうる噴火として想定した約1万年前の「桜島薩摩噴火」も巨大噴火の規模でした。

(11)高松高裁や大分地裁、そして玄海原発仮処分の福岡高裁決定にみられるように、近頃では裁判所の側が、この「基本的な考え方」に寄りかかる姿勢をみせています。

(12)改めて、九電に伺いたいのですが、「原発には特段に厳しい安全が要求される」これは間違っていますか。国はどうでしょうか。そのつもりで、法令を定め、税金を投入して規制機関を設置し、厳格な審査のルールを定め、運用しているのではないですか。そのつもりで新規制基準を定め、耐震審査指針を改定し、火山ガイドを定めたのでないですか。

(13)裁判所はいかがでしょうか。裁判所には、電力会社や国が厳格にルールを守ることを求め、これを破ったり、勝手に緩めたりすることがないよう厳しい目でチェックすることが期待されていると思います。それがどうでしょうか。「絶対的な安全性」という言葉で、「予測できない」を「想定を超えた」に言い換える子どもだましのようなやり方で、安全のレベルを率先して落とすようなことを行うのはなぜでしょうか。

(14)私がこの点を強調するのは、先の東電刑事裁判の判決で、裁判所が同じ言葉を使ったからです。一般防災のための津波の長期予測が出て、日本原電や東北電力は対策して間に合わせた、東電も現場は対策に動いたが、最終段階で経営トップが止めた、結果、取り返しのつかない事故となった、これを裁判所が「絶対的な安全性」までは求めないとして無罪にしたのです。福島のみなさんは泣き崩れ、怒りに震えてます。なぜ裁判所が、安全のレベルを落とすようなことを率先して行うのか。私には全く理解できません。このままでは、裁判所が、次の原発重大事故を引き起こすことになりかねません。

(15)火山防災は遅れており、巨大噴火よりもさらに一桁小さい大規模噴火への対応が迫られています。一般建築物であれば、まずはそれに集中するというのでよいのかもしれません。しかし、原発はそうはいきません。九電が太陽光の電気を拒絶するのを認めてまで、審査基準を骨抜きにしてまで、原発を運転し続ける意味はあるのでしょうか。玄海原発の稼働を止めてください。これは「絶対的な安全性」の要求などではありません。この地で人々が安全に暮らしていくための当たり前の要求です。